イチロー先生について
ちくわ歯科の紹介が表題ですが、この文章はほとんどの方にとって興味のない長い文章になっています。
当院がどんな医院かの機能面は、皆さまだいたいお察しの通りです。
数人の医療人の人生の起承転結にご興味のある方はお読みください。
私は、皆が忘れてしまうことを覚えておきたいので、折に触れてお話しできるように、どうしてもお亡くなりになられた笠松一郎先生について書き残しておこうと思います。
イチロー先生とイチロー歯科
ちくわ歯科は、笠松一郎先生(以下、イチロー先生)がおつくりになられました。
九州長崎ご出身で、歯医者を志し、日本大学をご卒業後にご研鑽し、のちに板橋区常盤台の地でイチロー歯科を開設なされました。
派手な治療や広告などしているわけではありませんでしたが、地域の皆さまに愛され、歯科医院過剰の当時としては珍しく、患者さまが列をなして待つ歯科医院に成長しました。細かくは書けませんが、驚異的、と言っていい水準で一日に100名、月に1000人が来院する歯科医院になっていました。
イチロー先生との出会い
ちょうど私がイチロー先生とお会いしたのは、その頃でして、当時私が勤務していた千歳烏山こまい歯科主催のバーベキューにお付きの方と一緒に遊びに来ていらしていたのが初めて知ったときでした。
聞くと、イチロー先生は当時こまい歯科のこれまた敏腕院長でいらした、現・渋谷匠デンタルクリニックの院長先生でおられる永谷文彦先生と大学時代の同期とのことでした。
その後数年が経ち、永谷先生は独立し、私も次の職場に転職した頃に、永谷先生主催の勉強会でイチロー先生と再会し、次第に永谷先生を介して話すようになりました。
はじめの頃の印象としては、よく笑い、よくしゃべる、面白い先生というのが印象でした。もろもろ話すうちに、常盤台の方でイチロー歯科と言う患者さまが大挙して来るクリニックの院長先生であると言うことも知り、その時はへーすごいなとなり、私もイチロー歯科に何度か見学に伺っていました。
私は当時インプラント専門のクリニックで、折りしもインプラントバブルと言われる時期の中で毎日何軒も手術をしておりましたので、イチロー先生のほうも私に対して興味を持っていただいてたというのが交際の始まりでした。畑は違えど、お互いの長所はすごいと思っていたわけです。
イチロー先生は根管治療が好きで、当時から、それだけの患者さまが来るのに安易に抜歯はせず、これは無理だろうという歯の根管治療をよく行なっていました。当然それも保険診療で行なっていました。
イチロー歯科について
イチロー先生は、なんとなくここでいいかなぁと言う理由で、常盤台の駅から15分くらい歩いた団地の手前にイチロー歯科を起こされたようです。
はじめは全然患者さまが来なかったらしいのですが、半年ぐらい経ったところからポツポツと患者さまが患者さまをご紹介して、それが芋づる式に増え、最盛期には月1000人の患者さまがユニット3台なのにいらっしゃられるクリニックへと成長しました。先生は一人だけ、衛生士さんは2、3人でそれは忙しかったそうです。
もちろんそれだけ患者さまがいらっしゃられますと、お金もそれなりになっていたでしょうから、それにイチロー先生の疲労も最大級に蓄積されていた頃だったので、イチロー先生は自費専門の医院を作りたくなり、医療法人化して杉並のほうにもう一つクリニックを立ち上げられました。
ちくわ歯科の開設
一切の権利を手放し、なおかつ自分の名前も顔も全ての媒体に出すことをやめたイチロー先生は、中板橋に小さなクリニックを構えられました。
それがちくわ歯科です。
名前はえ?ですが響きが可愛いのと、地区の輪になる、の意味で、「ちくわ歯科」の名前になりました。
話に聞くと、常盤台から中板橋が近いので、ちくわ歯科は開設後にさらにもう一回イチロー歯科から訴訟をふっかけられたとのことで本当に同じ経営者として背筋が凍るひどい話です。
と言うことで、イチロー先生は素晴らしい先生でしたが、現在のイチロー歯科はイチロー先生とは全く関係ありません(橋本先生は優しくて良い先生です)。
さてそのちくわ歯科ですが、本当に看板だけで宣伝は一切やっておりませんでした。ですので、これまた開設当初は患者さまはポツポツとだけ来る落ち着いた静かな歯医者さんだったそうです。
それでもやはりイチロー先生とついて来てしまったスタッフ(現奥さま)のお人柄でしょう、患者さまは放っておきませんでした。
1人また1人、さらにそのご家族が全員来るの形でどんどん患者さまが増えていき、1年経った頃にはだいたい満席のクリニックになりました。
地域の方たちの普通の処置を主に行なっていましたので、池袋で診療していた私のハプラス歯科にはよくインプラントや外科処置の患者さまをご紹介してくださりました。
諸々の騒動はあったものの、それを通じて私とイチロー先生はもっと仲良くなってしまった感じです。
ハプラス歯科とのかかわり
インプラントに関しても、イチロー先生はちくわ歯科ではやめてしまい、全くやっておりませんでした。ですので、晩年のイチロー先生はインプラント手術の患者さまを全部私にご紹介してくださっていました。
その時にわざわざ池袋まで足を運んでくださった患者さまには、この場を借りて本当に御礼申し上げます。
患者さまを見せてもらって、少なからず医院の業績にはプラスになるわけですので、本当にありがたかった。と同時に、イチロー先生も自分でもできるのに、やればいいのにもったいないな、その方が家も近いし、患者さまも喜ぶのになぁ、というのが、当時の私の感想です。
手術は私のところで、補綴も私のところで、そして普段のメインテナンスはちくわ歯科に帰って行なっていただき、たまにのチェックと調整と私の診察のためだけに、わざわざ池袋まで電車で来てきていただく形でやらせてもらっていました。
突然の死
イチロー先生と奥さまとアルバイト衛生士さんと矯正の先生で、最後の頃には忙しすぎずに暇すぎず、落ち着いたいいクリニックになっていました。やっとまた幸せになって老後が訪れそうなその少し後でした。
イチロー先生は急にお亡くなりになられま
した。
亡くなる半年前にスタッフさんも含めて池袋のクリニックまで遊びに来てもらえまして、イチロー先生とその後飲みに行きました。
最後にお会いしたのはその時だったのですが、今までお会いした中で1番元気はなく、何か悲観的で、なおかつ暗かったのをよく覚えています。
普通の人間ならば耐え難い裏切りや離反にあったその最中でも、イチロー先生はその当事者のことを含めて人のことを悪く言いませんでした。悪く言っても、その時もイチロー先生は笑っていました。
それが最後その時はぽつり、やっぱりみんな裏でグルで裏切ってたのかなあ、カモられてたのかなあと、言っていたのが今でも思い出されます。どんなことでも笑ってしまうイチロー先生でもやはり、病気だとそうなるのでしょうか…その時私はいやーそれはどうなんですかね…くらいにしか返答できなかったのですが、バカ明るいイチロー先生にもそれを思い返すと無念はあったと思っております。
同時に、最後お会いしたその時に、何か違う一言が私も言えたのではないのか、何か違う協力のやり方はあったのではないかとも、私の中に残っています。
お葬式
思ったことを言葉にできない、会話ができないという、よくわからない体調不良があるとご連絡をいただきわずかその1ヵ月後でした。
ちくわ歯科は臨時休診になりました。
検査をしてわかった病名は、ヤコブ病。
難病です。
診療には戻れなくなり、当時のちくわ歯科の患者さまはほとんど池袋のハプラス歯科まで来ていただくことになり、私どもでできるだけ診て何とかつないでおりました。
私もお見舞いに行かなければと思いつつも、2ヶ月ほど経った頃にイチロー先生は亡くなりました。
私も最後にお会いできなかったことを悔やみつつも、お通夜とお葬式には行かせていただきました。そこでまたイチロー先生のすごさに触れることになります。
ごく通常の家族葬でしたが、わざわざ戸田の斎場に300人もご列席なさっていました。聞いたところ半分はちくわ歯科の患者さまだったそうです。
普通はありません。想像していただきたいのですが、ご近所の歯医者さんが死んだとしても、またたとえ大きな何百万円もする歯を入れたとしても、その先生のお葬式まで行くでしょうか。
ましてイチロー先生は、対外的に見ればご自身の甘さから自分の医院を失い、落ち目で復活できぬままお亡くなりになられた。
それを見て、私はその人生の最後にもイチロー先生のお人柄に触れ、これは患者さまたちが大変なことになる、何かしてあげないとと感じたのを覚えています。
私も、隣の人も、皆泣いていました。
今日までとこれからの
ちくわ歯科
休診1年 譲渡まで
そういった山あり谷あり色々あったイチロー先生は亡き人になりましたが、その後に残ったのはちくわ歯科の箱でした。閉院するのか譲渡するのか、それ以外か、奥さまはいろいろ悩み動かれていました。
私もなぜか相談によく乗り、引き受け先のお話が来ると、そこは良さそうとか、そこはやめといたほうがいいんじゃとか、などと話していました。苦労なさっておられました。
そして亡くなって半年ほど経って、それでもまだいい引き受け先は決まらずに探す最中で、納骨される前にお線香をあげに行くついでに、ちくわ歯科に久々に伺った折、何かいい譲渡の道筋、案ができるかと、私も久々にちくわ歯科の中に入って、中板橋の街を歩いて、これは本当に不思議と何かはまだ生きていることを感じました。
今にして思えばそれは慕ってくれている患者さまのお気持ち、最後まで治療したいと仰られた由のイチロー先生の気持ちの複合、結晶、空気のような言葉にできないものだと思い皆さまに感謝申し上げたいのですが、辛くても、やっぱここはめっちゃいい歯医者だから、わかる人には必ずわかるから、買い叩いてくるような奴らに渡してはいけないとか、いい引き受け先をいくらでも待たないといけない、空家賃でお金がなくなりそうなら私どもでそこは出すからとか、そんなことをいくつかお話しして、しばしのちご遺族も、やはりちくわ歯科は、木村先生に私もそこまで言っていただけるならと、その時の心の動きはよく覚えていないのですが、それもイチロー先生のお力かと、お引き受けすることになりました。
引き受けてから、苦労
大きな不安はあったものの、少し貯金もありましたので、何とかなるだろうと、ちくわ歯科を始めることになりました。周りからはおおよそ反対されていました。何せ小さい。
そして閉院前1年は満席とは言っても、収支はトントン、拡張性も未来もない負動産であると。
そしてその不安の通りに、当然に待っていたのは、さらなるいくつものハードルでした。
ちくわ歯科は、イチロー先生のお人柄と名人芸によって、そしてその空気によって成り立っていたクリニックでした。
ですので一番苦労したのは、後任の院長先生になるその先生です。ありとあらゆる採用を行いヘッドハンターにも声をかけました。
それはそれはお金も気力も使いました。でも、反応はないし、私もぴんとこない。そうこうするうちに、どんどん時間は過ぎて、お金だけが消えていきました。私も甘かったのですが、当たり前です。前の先生が亡くなられた、よくわからない歯科でやりたい先生は居ません。これからの若い人は特に。
それでも何度もスカウトと採用の見直しを行い、もうダメだから週1日だけ自分が入ってちくわを再建しようと思った頃に引き受けてもらえたのが、現・大河原院長です。閉院からもうじき1年が経つ頃でした。
大河原先生のこと
はじめ大河原先生はご自宅にほど近い、ハプラス歯科新宿院にて診療をお願いしていました。新宿院は特に患者さまもスタッフも若いので、年齢層を上げようと思いベテランに絞って採用を行なっていた折でした。
大河原先生は体を壊して30年やっていたご自分の医院を畳まれて、そのまま引退するも時間を持て余し、やはり患者さまの役に立ちたいお気持ちでいくつかの大手の医療法人で理事をやりながら、掛け持ちでご入社いただけました。あまり無理せずゆっくりやっていただいておりました。
大河原先生は私が苦労しているのを見てくださっていたので、もうそろそろ休診してから1年経ってしまうので、週1だけでもお願いできないかとお願いしたところ、二つ返事でオーケーいただき、その後は院長先生の形だけでもということになり一緒にやり始めました。
イチロー先生と奥さま、それから地域の患者さまが大切にしてきたちくわ歯科です。丁寧に再開しました。そして続けて診察するにつけこれは、ちくわ歯科の一切は大河原先生に差し上げようと思えるようになりました。
一番いいのは亡くなったイチロー先生によく似ています。患者さまに優しくて、よく笑って、よく話してくださいます。
かかってもらえればわかると思いますが、青山学院のお坊ちゃんがそのまま歳をとった感じの人です、育ちが良くて、根がいいですから安心できます。
大河原先生も、中板橋の街と、患者さまのことが好きになってくれたようです。ちくわ歯科は分かる人、通ってる患者さまには良さが感じてくれる歯科医院でして、大河原先生もそれをわかってもらえたので、うまくいきはじめてい
ます。
持つべきものは、頼れる大先輩です。
今後のちくわ歯科はどうしていく方向か
そんなことでいろいろあったちくわ歯科ですが、再開して1ヵ月が経ちますが、待っていてくださった患者さまで2週間先までメインテナンス・予防歯科の予約は大体埋まってしまいました。
患者さまのお気持ちに寄り添って続けていた医療はこんなにも強いのかと、私も驚き、40過ぎの医者のはしくれですが、改めて医療というものの尊さに感動しています。患者さまが家族ぐるみでご来院し、安心して帰っていってくださる光景がこの医院にはあります。患者さまも安心と言う言葉は浮かばないほど普通な感じです。
それを続けていきたいのが、私の願いです。最高や最良を謳った設備や豪華さや諸々はありません。その路線ではありません。大河原とスタッフ達と、たまに私と、中板橋の皆さまの人生に寄り添っていけるごく普通の歯医者であり続けたいと思っております。
私の医院継続のただ一つの動機はイチロー先生に報いたいということ、イチロー先生の力をもらって居続けたいということですので、13回忌までこの医院は今のままの路線で続けてゆきます。
最後に
こんなに長くとりとめのない文章を最後までお読みいただきありがとうございました。
今でこそ、人は生まれるとき、死ぬ時を病院で迎えるようになりました。医療はより専門化されてきました。
そんな中で、やはり普通の人は病院は怖いし行きたくないのではないでしょうか。死ぬときくらいは自宅に、死ぬ前に一度は自宅に、と思っている人は多いはずです。
ホームドクターという言葉があります。ちくわ歯科は、板橋の自宅の延長、ご近所、まさにホームドクターでありたいという目標のもとで、地域に根ざした、地区の輪になる場所になれるような願いのもと、中板橋の皆さまと助け合いながら丁寧に地域の健康を支えてまいります。